釈尊のさとり (1979年) (講談社学術文庫) pdf無料ダウンロード

釈尊のさとり (1979年) (講談社学術文庫)

によって 増谷 文雄


以下は、釈尊のさとり (1979年) (講談社学術文庫)に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
釈尊が説いた悟り、が明快に描写されています。仏教思想なんて、うさんくさい、と思っている人にはいい本ではないかと思います、私たちは西洋の思想や科学技術を辛抱する傾向がありますが、仏教だって、立派な思想の営みです。そこに価値の優劣はありません。一般教養として、読んでみる価値ありとも思います。仏教思想は、発生から2,500年もたち、時代を下っていくと釈尊が神格化され、ありとあらゆる亜派が起こり、世俗化し、時には政治化し、時には煩瑣な論理遊びのようになってわれわれ素人にはとっつきにくい分野になっていますが、この本で、原初に立ち返ることができると思います。仏教思想から興味を広げると空海、最澄、日蓮、法然、一遍、こういうところに漂いますが結局なんだかよくわからなくなったときに役に立ちそうな本です。この本では、釈尊の思想の詳述に入る前に、「悟り」について定義しています。日本人には、オウム真理教のショックから、宗教アレルギー気味なところがあり、その語感の怪しい響きから、「悟り」なんてことについて語りだすとお前大丈夫か、といわれてしまいますが、こういうことにしっかりと免疫と耐性をもててこそ、平衡感覚を養える、ということです。事実、オウム真理教以降、日本において宗教、精神世界といった類の話題は実質タブーとなりました。空白の期間が続き、そこに商業的な意図を含めて乗り込んできたのが空前のスピリチュアルブーム。今でこそかのスピリチュアリストは詐欺師だとみんな認識しているようですが、免疫と耐性がないからタブー、ブーム、タブー、ブーム・・・を繰り返すのです。そんなのに乗せられていたらバカ丸出しになってしまいます。スピリチュアルグッズを買い込まされる、商売のカモになってしまいます。当の本人は乗せられてるなんて露ほども思わず、幸せになった気でいるのだからそれこそ奴隷そのものです。われわれは、宗教、思想、カルト、迷信、こういうものに向き合わなければいけません。何かを信じる力、というエネルギーをうまーく使いこなせれば、なにか価値あることを成し遂げるための原動力にもなるのです。これこそ、セルフコーチングにほかなりません。本の内容に戻り、いわく「悟り」とは直感である。直感すなわち受動的である。著者はいいます。つまり、悟ろうと思って悟ったのではなく、あるときぱっとひらめいたのが、悟り、ということだそうです。これは、鵜呑みにしてはいけないと思いました。著者は、仏教学の大御所で、かなりの研究をされた第一人者です。そして、悟った当の本人、釈尊も、何年ものかなりの思索をしている人です。つまり、能動的に考えているからこそ、受動的な「悟り」の原因たりうるのです。われわれ素人が、何の脈絡もなしに「悟る」ことはありえないのです。私の経験と理解では、「悟り」とは、系の超越、と考えています。皆さんも、経験あるはずです。いくらがんばって練習しても弾けなかった楽器のフレーズがあるときふと、何の苦もなく弾けてしまう、とか、いっくら考えてもわからなかった算数の問題が、あるときふと答えがひらめく。どこ探しても出てこなかった探し物が、なんとなく移した視線の先に見つかる。こういうのが悟りです。つまり、いままでそれしか見えていなかった世界(=系)から、そこで蓄積された情報が組み合わさり、まったく別の情報世界が突然開ける、ということです。脳みそは、寝ている間も動いているようです、記憶を整理するために海馬が働き、長期記憶を固定化するために側頭葉が働く。神経間の電気信号が常に動いているのだそうです、一晩中演算をこなすコンピュータのようです。ですから、意識していない間も情報の整理が行われていて、突如として答えが浮かぶ、これはありえないことではなさそうだ、と素人でも思い至ります。ここで誤解してはいけないのは、悟りは受動である、なら何にもしなくても悟れるってことか、じゃぁ、がんばらなくてもいいじゃない。食って寝てクソして本能の思うがままに面白楽しくだらだらと生活してればいいじゃない、と現世肯定、欲望肯定のように考えてしまうことです。悟りとは、系の超越と考える、といいましたが、実践的な意味では、答えが得られる、といえると思います。答えが得られる(=悟る)のは、あくまで、情報の膨大なインプットがあったからなのです。情報のインプットは、能動的にしか起こりえません。本を読む、考える、練習する、そういう行為そのものを通して得られるのが情報です。厳密には、五感を通して、こうしている間にも、椅子に座るおしりの感覚、皮膚を柔らかく包む靴下の感覚、キーボードをたたく指先の触覚、画面の輝度を感じ取る資格、エアコンの音を感じる聴覚、とあらゆる情報が入ってきますがそんなのいちいち気にしていたら脳みそがパンクするので脳が自律的に無視しているだけです。あくまで、必要な情報は、意思がないとはいってきません。それが飽和したとき、系を超越する=答えが見つかる=悟る、ということだと思います。答えが見つかるからには、それに先立つ疑問がないといけません。釈尊の場合は、「なぜ人生、悩むのか」というものでした。それに対して徹底的に思索し、インプットを行ったからこそ答えが出たのです。この答えとは、今までの世界では見えていなかった概念のはずです。なぜ見えないものが見えるようになるのか?これは、組み合わさった情報が新しい概念を構成するからだと思います。抽象度が上がる、といってもいいと思います。一番抽象度(Level of abstract)の低いのは、物理。その次は、言語。おそらく、言語の上にも上位概念はありますが、より下位の抽象殿概念では上位を定義することはできません。おそらく本質的に、悟りとは、言語の抽象度を超えているでしょうから、本来言語で表すのは無理なのかもしれません。それがいまだにわれわれが、仏教思想とは何か?を問い続ける理由であると思います。言語といっても、その抽象度には階層性があります。言語も情報ですから、情報の階層性が一段上がったときに、事象の整合性が把握できるのでしょう。ビルの上に上がるのに似ていると思います。地上で目的地を探すときは、右往左往しますが、ビルの上から見れば、目的地までの経路が一目でわかる、ということです。より高い視点(より高い抽象度)では、より低い次元を整合的に把握できるということです。人生、苦しみがあり、悩み、いつまでたっても解放されない、そんなことを考えていて釈尊は、地上で目的地を探していた(答えを探していた)のだが、あるとき情報のインプット(徹底的に明晰な思索)が飽和し、新たな概念が生まれ、ビルの上に上がったように、目的地がわかった(答えがわかった)のだと思います。さて、素人であるわたしが偉そうに仏教談義するのはここまで。思索思索、といっても、それは実践です。何も考えない、何もやらない人間が何かそれに本気で取り組んでいる人と同じ目線の高さで話せるわけがありません。そう、実践してこそえらそうにものをいえる立場にになるのです。まぁ、凡夫であるわれわれには、きちっとした明確な目的意識を持ち、自分で自分に情報をインプットし、常に考え続ける姿勢を保つ、ことができる最低限のことかつもっとも高貴なこと、であると信じています。それができないのは餓鬼畜生である、ということです。仏教思想に触れるたびにいつも、自戒させられます。話が本の内容に戻り、著者は、悟りとは受動である、と定義するのですが、能動あってこその受動であることを忘れてはいけません。ラクして答えがわかる、そんなうまい話はないのです。そこで考えるのをやめてしまっては、思考停止です。奴隷の道まっしぐらです。このことにだけ注意していれば、本当にいい本だと思います。何度も気づかされます。以降は、おなじみ、釈尊の原初の思想、つまり後世の思想家によって修辞させられたり論理を混乱させられたりしていない、もっとも純粋な釈尊の思想が説かれます。縁起、四聖諦、十二支縁起、云々。いたってシンプルで、この上なく美しい道徳だと思います。本も、わずか100ページ未満で口語体で読みやすい。お勧めの一冊です。

0コメント

  • 1000 / 1000